大学生が読んでみたら面白そうな本を紹介するブログ

「読書はきっと人間力を向上させる」と自己暗示を掛けながら読書に励む大学生が、読了書を書評を模して紹介します。

『多数決を疑う―社会的選択論とは何か』 坂井豊貴著 岩波新書

 

 今回読んだ本はこちら。

 

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 もともと投票や選挙といった分野には興味があったので、Amazonを徘徊していたら出てきたのでポチり。理詰めと言えば理詰めな内容だけれど、比較的軽いので、勢いでサーッと読める。

 

 

 本書の主題は、そのまま、「多数決を疑う」ことである。そして、結論から言って、多数決は、多数意見を正確に反映できない仕組みである(選択肢が3つ以上の場合)。即ち、多数決はグループ内での票割れを招き、その結果、多数意見を反映しきれないのである。

 例えば、候補となる政策が「左」、「中」と2候補あり、それぞれに10、15人の賛同者があるとする。一見政策「中」が盤石に思えるが、ここに候補「右」が加わるとどうなるか。「中」が分裂し、10、7、8となってしまい、「右」賛同者が最も忌避する政策「左」が採用されてしまうのである。

 このような「票割れ」を招きかねないケースで最も有用なのが、1位3点2位2点3位1点というように点数を付ける、ボルダルールと呼ばれる方法である。ボルダルールは、上記したような票割れに強い。(上記ケースでは、政策「中」が採用される)

 

 

 実際の議員選挙でも票割れは発生しているはずであるが、なぜ多数決が用いられ、ボルダルールが採用されないのか。これは、多数決が優れているというよりも、ただの慣習として多数決が根付いているだけである。この現象を著者は、「民主制のもとで選挙が果たす重要性を考えれば、多数決を安易に採用するのは、思考停止というより、もはや文化的奇習の一種である」と糾弾している。これこそが「多数決を疑う」理由であり、実際、「多数決」は多数意見を反映し切れないのである。

 本書中では、帰納的な方法により多様な意見集約法が紹介されている。そして結果として分かることは、「どの集約ルールを使うかで結果が全て変わる」「結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果である」という衝撃である。我々は、代表制民主主義という、意見の集約が不可欠な社会に生きている。その点、集約ルールにも目を向けた上で、民意とは何なのかを考え直すべきではないかと強く感じさせられた。

『江戸時代』 大石慎三郎著 中公新書

 

 唐突に江戸時代に興味が湧いたので、「中公なら、まあ、ありっしょ」と内容も特に確認せずにポチり。羅列的に歴史を述べる本かと思いきや、テーマごとに、江戸時代を象徴する制度や文化について解説されている。

 

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 著者の述べる江戸時代の特徴、その大枠二つは、①本当の意味で庶民の歴史が始まった時代であること②250年に渡って内外共に争いが無かったこと である。そんな中で、この本を通読したうえで特に印象に残ったのは、①に挙げられている、本当の意味で庶民(農民)の歴史が始まった、という点である。

 

 江戸時代、ひいては戦国時代には、河川や水路の整備が強く推し進められた。その理由は、物資輸送路としての水路の重要性、新田開発、水災対策など諸々である。

 また、江戸時代には本草学が発展するなど、農業技術も大きく向上した。このような事が相まって起こったことは、農家における、余剰生産物の発生である。それまでは「生かさぬよう殺さぬよう」で年貢を取り立てられていたが、余剰が発生することにより、農民が、それらを売買することで少なからずの富を得られるようになった。その結果として、商業の発展、複雑化、また、米余剰が発生したことによる米価の下落、即ち「米価安の諸色高」が引き起こされたのである。このことは、江戸時代の構築原理である石高制の崩壊を導き得るものであった。

 

 また、江戸時代後期には農民による一揆が頻発したり、年貢徴収において賄賂が動いたりと、政治とは別の部分で、庶民(農民)の生活に主体性とも言えるものが生じていることも見て取れる。

 

 このような点を見ると「本当の意味で庶民の歴史が始まった時代」と著者が江戸時代を位置付けるのも頷ける。また、明治以降の農本主義的な思想にもこの江戸時代からの流れが強く影響を与えているのでは無いかとも感じられた。

『知っておきたい日本の神話』 瓜生中著 角川ソフィア文庫

 

 誰に向かって書いてるのかがよく分からないせいで、随分書きにくい。ので、あくまで自分のメモ程度のつもりで。。。笑

 

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 なぜこの本を読んだのかといえば、神だの仏だのに関しての知識があまりにも無いので、幾らか補っておきたいと考えたためである。そんなわけでこの本を読んで、日本の神話に関する知識がゼロだったことに恥ずかしさを覚える程度には新しい知識を身につけられたと思う。

 

 まず第一前提として、神話は「誰かによって描かれたものである」という事について。普通に考えれば至極当然なことであるが、神話も、人間の手によって「創り上げられた」モノなのだ。即ち、日本の神話は、天皇家の遠い遠い遠い祖先が、自家の支配者としての正統性を示すために編んだものなのである。そう考えると、なるほど天皇家が現人神として君臨していたことにも納得がいく。なにせ、自分の祖先(実在したかの真偽は不明)を神話の中で「神」として掲げ、自分をその血統を継ぐものとしたのである。

 神話について学ぶことで天皇制の一端を理解できるとは毛頭思っていなかったので、この点はとても勉強になった。

 

 また、全国には伊勢神社や出雲大社など知名度の高い神社があるが、それらが祀っている神々は日本神話に登場する神々だということも本書を通じて知った。

 神社には出向くが、誰に願っているかも分からずともかくも手を合わせる。そんな日本人が大半だとは思う。しかし、祀られている祭神がどういったルーツを持っているのか、どういった形で神話上に登場するかを知っているだけで、随分と祈りに現実味を帯びてくるような気もしないでもない。。

 しかし、神話は長く、登場する神々は無数にいる。そのため神話の全てを把握することは到底不可能だが、主だった物語に触れ、神話の流れを掴むには当書は最適であると思われる。

 

 総じて、身になる部分がとても多い本であった。その上、軽く読み進められるのがなお良かった。

『心と脳―認知科学入門』安西祐一郎著 岩波新書

 

 この本を読もうと思ったきっかけは、大学のメディア論の授業。メディア論の教科書の中で脳の構造についての記述があり、「脳について勉強したら色々応用が効くのではないか」と淡い期待を込めて購入し、読み始めた。

 

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 メディア論の授業で触れた脳の分析では、左脳と右脳の機能が大まかに区分されており、現代は右脳的な時代なのではないか、との考察が成されていた。しかし、その点については、「右脳左脳は構造が異なり機能にも違いがあるが、それぞれ一方が傷ついた際には機能を補完するように働くこともある。そのため左右半球の違いにこだわる研究者は少ない」と述べられていた。

 

 

 当書は、ともかくも、認知科学の「入門書」である。内容はこれまで認知科学が歩んできた系譜に沿って構成されており、これから認知科学に取り組もうとする人には、力強い支えになるであろうと思われる。しかし、「ちょっと脳科学に興味がある大学生」にはいささか難解である点のほうが多いように思われた。何より、専門用語や人名が多く、内容がスッと噛み砕けない。

 

 だが、それでも実になる点は幾つもあったので数点挙げる。

 まず、「認知科学」という分野そのものについて。認知科学は、近年大きく成長した分野であるということを当書を通して学んだ。そもそも認知科学=脳科学ではなく、脳科学に情報科学の方法論が合流したものが認知科学であるという点が一つ。すなわち、認知科学は、近年の情報技術の発達によって、より大きな発展を遂げたのである。

 そして、心と脳は別ものであるという考えが主流であるという点を改めて確認できたのも大きな収穫である。即ち、心(感情)が思考(脳)を制御したりと、これら二つは別々のものとして相互に影響をし合っているというのである。また、この「心と脳」に関する研究は、まだまだ発展途上であり正確なところは分かっていない、むしろ、「脳の研究がいくら進んだとしても、心のはたらきを十分に説明することは困難である」と著者は述べている。

 

ともかくも、脳科学に少しでも興味があるならば、読んでみるのもありかもしれない。が、先述したように難解な部分が多いため、興味がある部分だけ掻い摘んで読むのが良いかとは思う。

 

 

『旅の流儀』玉村豊男著 中公新書

 

 裏で内容の重い本を読んでいるので、軽い本をさらっと読了。

 

 

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 玉村豊男氏の『旅の流儀』。

 他で連載していたエッセイを再編したものらしく、サクッと読める。

 

 旅というのは、誰と行こうとどこに行こうと、必ず一人称視点で進む。また、例え複数人で旅に赴いたとしても、その興趣を深く語り合うことはそうない。その点で、他人目線での、旅への向き合い方や旅中での実践などに触れられるのはとても新鮮である。

 

 例えば、長野在住の著者は、東京に仕事の都合で宿泊する際には、ホテルの周りを散策するのだという。またその際には、「自分がこの街に住んだら」という視点を持つとのこと。著者曰く、見慣れた風景であったとしても無かったとしても、ホテルを自宅と仮想して街を見回すと、全く別の風景が見えてくるのだという。

 旅先で宿泊先の周りを散策することはあるが、そういった視点を持って隈なく見回したことは無かったので、一つ実践してみたくなった著者の習慣である。

 

 もう一つ実践したいと思ったのは、旅先での散髪の習慣である。著者は、海外に行くと、言葉が通じなかろうと、散髪屋に入るのだという。「言葉の通じない国で散髪をするのは、実害の少ない旅の楽しみである」と著者はまとめている。

 

 

 70歳を迎えられた玉村氏は、学生として2年間を過ごしたパリでの習慣がその後の生活習慣に強く影響を及ぼしていると述べる。この言葉を信じれば、いま20歳で経験する様々なものは、この先の長い人生に大きな影響を与える。

 そう考えると、たくさん旅をし、たくさんの事を経験し、それらの経験をこの先の人生や生活に敷衍していくような感覚を今から持てていると良いのではないかなと強く感じた。どうしても上手く著書全体をまとめられなかったが、一番強く印象に残ったのはこの部分である。

 

 

『暁の寺-豊饒の海・第三巻-』三島由紀夫著 新潮文庫

 

 三島の作品に触れるのはこれで漸く7作目。今回読んだのは、豊饒の海の三巻目にあたる『暁の寺』である。

 転生を軸に進むこの『豊饒の海』シリーズであるが、本作は特に、人間の「恥」、そしてその対義にある「誉れ」に焦点が置かれているよう私には感じられた。

 

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 私たち世代にしてみれば三島由紀夫は歴史上の人物であり、ずいぶんと「遠い」イメージがある。しかし、彼が割腹によって世を去ったのは1970年。私の生まれるたった25年前である。

 とは言え、いまを生きる人々が彼を歴史の中に見るのは当然といえば当然ではある。しかし、彼の描く画、そして精神は、近代日本を一本に鋭く貫き、また、それらは現代社会にまでも脈々と生き永らえているよう思われる。

 

 

 無い知識を振り絞ったとしても、私が三島を語るのは随分に浅はかである。が、少し私見を述べる。ここでは二本立てて三島の面白さについて述べる。

 

 

 まず一つ目は、三島の描く「死」である。死といっても、その描写に美しさがあるのではなく、死に対する認識という点に美的要素が閉じ込められている。私が本書の中で三島の持つ「美」が最も表れていると思うのは次の文章である。

「彼女はともすると一種の光学的存在であり、肉体の虹なのであった。顔は赤、首筋は橙いろ、胸は黄、腹は緑、太腿は青、脛(はぎ)は藍、足の指は菫(すみれ)いろ、そして顔の上部には見えない赤外線の心と、足の踏まえる下には見えない紫外線の記憶の足跡と。……そしてその虹の端は、死の天空へ融け入っている。死の空へ架ける虹。知らないということが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなわち「死」に。」(p264L7~)

三島の持つ美的感覚は、常人のそれを逸しているよう常々感じる。そして、そんな「美」の根源にある物は、この「エロティシズム」と「死」の関係性にあるのでは無いだろうか。

 

 ここでは一つの文章の抜粋にとどめたが、三島文学の中にはこのような、独特な「美」が散りばめられている。私が三島の作品に惹かれる一因は間違いなくこの「美」であり、毎度、未知の色眼鏡で世界を観ているような気分を味わえる。三島の作品に触れることは、とても感慨深い経験なのである。

 

 

 

 そして二つ目には、三島の用いる表現そのものの美しさ、を挙げようかと考えていたが、やめる。この点については、次回三島を取り上げる際に、言及しようかと思う。

 

 

『読書力』齋藤孝著 岩波新書

 

 

書評を書く場所を何処かに作りたく、このブログを立ち上げました。

 

 

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 記念すべき1冊目は、『声に出して読みたい日本語』で有名な齋藤孝氏の著書、『読書力』。

 

 

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 斎藤氏は、日本人の読書力を、ただ単に文化というだけでなく、日本経済の一角をさえ担う資産として捉えるべきではないかと主張する。そして現在の日本人の読書量の低下は、経済は愚か国力の衰退をも導き得るのではないかと危惧する。そこで斎藤氏は、「日本の地盤沈下を食い止める最良の手段」として「読書力の復活」を掲げている。このことを前提として本書は著されており、少しでも日本人の読書力の向上に繋がれば、という氏の思いが読み進めると強く伝わってくる。

 

 

 Ⅲ章の冒頭で述べられているのだが、氏は、学生相手に会話をしていると、本を読んでいる学生であるかそうでないかがすぐに分かるという。その要因として挙げられているのは、会話中の「脈略」の有無である。「要約を言えることが読んだということ」と著者は述べるが、その「要約力」が会話中の脈略づくりに大きく寄与するのだという。つまり、相手の話の要点を上手く掴み、自分なりの観点で切り返す。この能力によって本を読んでいる人間かどうかが分かるということである。

 

 もちろん本から知識を充填することは重要であるが、本書で主に扱われるのは上記したような「コミュニケーション力」、しいて言えば「人間力」の向上に読書が如何に寄与するかという点である。本書は、「読書が如何なる人間的能力を引き上げるか」が述べられた部分と、「では実際にどのようにして読書を実践すれば(始めれば)良いのか?」という疑問に答える2つのセクションに大まかに分かれている。

 読書が我々にもたらす変化に触れ、その上で具体的な実践法にも触れられる。読書入門の良書である。