『暁の寺-豊饒の海・第三巻-』三島由紀夫著 新潮文庫
三島の作品に触れるのはこれで漸く7作目。今回読んだのは、豊饒の海の三巻目にあたる『暁の寺』である。
転生を軸に進むこの『豊饒の海』シリーズであるが、本作は特に、人間の「恥」、そしてその対義にある「誉れ」に焦点が置かれているよう私には感じられた。
私たち世代にしてみれば三島由紀夫は歴史上の人物であり、ずいぶんと「遠い」イメージがある。しかし、彼が割腹によって世を去ったのは1970年。私の生まれるたった25年前である。
とは言え、いまを生きる人々が彼を歴史の中に見るのは当然といえば当然ではある。しかし、彼の描く画、そして精神は、近代日本を一本に鋭く貫き、また、それらは現代社会にまでも脈々と生き永らえているよう思われる。
無い知識を振り絞ったとしても、私が三島を語るのは随分に浅はかである。が、少し私見を述べる。ここでは二本立てて三島の面白さについて述べる。
まず一つ目は、三島の描く「死」である。死といっても、その描写に美しさがあるのではなく、死に対する認識という点に美的要素が閉じ込められている。私が本書の中で三島の持つ「美」が最も表れていると思うのは次の文章である。
「彼女はともすると一種の光学的存在であり、肉体の虹なのであった。顔は赤、首筋は橙いろ、胸は黄、腹は緑、太腿は青、脛(はぎ)は藍、足の指は菫(すみれ)いろ、そして顔の上部には見えない赤外線の心と、足の踏まえる下には見えない紫外線の記憶の足跡と。……そしてその虹の端は、死の天空へ融け入っている。死の空へ架ける虹。知らないということが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなわち「死」に。」(p264L7~)
三島の持つ美的感覚は、常人のそれを逸しているよう常々感じる。そして、そんな「美」の根源にある物は、この「エロティシズム」と「死」の関係性にあるのでは無いだろうか。
ここでは一つの文章の抜粋にとどめたが、三島文学の中にはこのような、独特な「美」が散りばめられている。私が三島の作品に惹かれる一因は間違いなくこの「美」であり、毎度、未知の色眼鏡で世界を観ているような気分を味わえる。三島の作品に触れることは、とても感慨深い経験なのである。
そして二つ目には、三島の用いる表現そのものの美しさ、を挙げようかと考えていたが、やめる。この点については、次回三島を取り上げる際に、言及しようかと思う。